教授のひとりごとBlog
フィクションとしての生命科学
世紀の大発見と言われたSTAP細胞は、公表後わずか1ヶ月にして大きな疑惑に包まれ、論文の取り下げが検討されるという異例の事態に至った。報道が全て真実ではない可能性を割り引いたとしても、科学論文として不適切なデータの取り扱いが行われていたことは確実とされており、世間の注目は、今回の「事件」が一流研究者にも避けられない「不注意」に基づくものであったのか、意図的な「創作」によるものであったのかという点に集まっている。冷静に考えてみれば、生物学の歴史を塗り替える内容であっただけに、世界中の研究者が結果の追試を行うことは想定済みだったはずであり、内部調査委員会の報告書を読む限り、これだけ無防備な状態で投稿が行われたこと自体が現実とは信じがたい。
視点を変えれば、今回の事件は、現代の生命科学研究自体がはらむ本質的な問題をきわめて象徴的な形で浮き彫りにしたものとも言える。多くの生命科学論文の正当性は「仮説を実験によって証明すること」によって担保されているが、その証明に用いられた実験の結果自体が自然界における真実をそのまま表現しているわけではなく、いわば「仮想現実」とみなされている。実験の再現性・正確性にしても、査読者が全く同じ実験を行った経験がない限り、その信憑性を正確に評価することは困難である。また、最近多くの論文において問題にされているデータの加工についても、多くの良心的な研究者にとって悪意のない電子的なデータ処理は日常茶飯事であり、論文執筆にあたって研究仮説に都合の良いデータが採用されやすくなることも避けがたいのが現実であろう。いずれにしても、現代の生命科学研究は「良くできたフィクション」と「ノンフィクション」の間を揺れ動いており、その物語のうち何れを信じるべきか何れを信じてはいけないかの境目はますます曖昧になっていくであろう。
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