講座の歴史History
初代朝長教授時代1959(昭和34)年11月-1965(昭和40)年6月
当講座は1959年(昭和34年)11月1日、広島大学医学部原子放射能基礎医学研究施設の原子放射能傷害医学部門として発足いたしました。初代教授には、長崎大学より朝長正允先生が着任されています。
1961年(昭和36年)4月には、「原子爆弾の放射線による障害の治療および予防に関する学理並びにその応用の研究」を目的として原爆放射能医学研究所(原医研)が設立され、当講座はその臨床第一(内科)部門となりました。同年秋には附属病院に新病棟が落成し、西1階に被爆内科と被爆外科、計50床の混合病棟ができ、1962年(昭和37年)4月からは、正式な診療科として外来での診療が開始されました。
朝長教授は被爆者白血病の研究には染色体検査が不可欠なものと考え、長期間にわたり貴重な解析結果を蓄積されました。1962年(昭和37年)9月には、被爆後早期に慢性骨髄性白血病(CML)と臨床的に診断された患者の骨髄細胞にフィラデルフィア染色体が存在することが初めて発見され、この研究を契機として、白血病を含む様々な血液疾患についての染色体分析が軌道に乗り始めます。さらに朝長教授は、好中球アルカリフォスファターゼ(NAP)の細胞化学的半定量法(朝長法)の確立、急性骨髄性白血病やCMLにおけるNAP低値の診断的意義などに関する業績を残した後、1965年(昭和40年)7月に長崎大学原研内科の教授として転任されました。
内野教授時代1965(昭和40)年9月-1975(昭和50)年9月
1965年(昭和40年)9月、京都大学医学部第一内科の内野治人講師(当時)が第2代教授に就任し、朝長教授の築いた基礎の上に、教室は血液内科学の専門研究分野として一段と発展することとなりました。1966年(昭和41年)7月には病床増(45床)となり、病棟も増築された西4階に移転することとなりました。
内野教授は巨赤芽球性貧血の研究者としてビタミンB12、葉酸代謝等を専門とされ、被爆者の造血機能、血球の分化と増殖、白血病の診断と治療などの研究を推し進めました。また、1967年(昭和42年)7月にはさらに血小板の研究を進めるため、後に第3代教授となる藏本 淳先生を京大第一内科より招聘し、止血・血栓に関する研究の基礎を作り上げました。
また、朝長教授時代より継続されていた染色体分析の研究により、近距離被爆者の骨髄細胞に染色体異常クローンが存在することもこの時代に発見され、後の“前白血病状態”(今日の「骨髄異形成症候群」)の研究に大きな道標を示すこととなります。これらの業績を残し、1975年(昭和50年)9月、内野教授は京都大学医学部第一内科へ転出されました。
藏本教授時代1976(昭和51)年7月-1995(平成7)年3月
1976年(昭和51年)7月、藏本 淳助教授(当時)が第3代の教授に昇任いたしましたが、その後、藏本教授が退官に至るまでの19年間は、臨床面・研究面・教育面のいずれにおいても新しい対外的発展を見た時期となりました。
藏本教授は血液疾患を中心とした内科全般、さらに他科との連携を強化する必要を掲げられ、当部門設立目的であった被爆者の内科的後障害の基礎的・臨床的研究はもとより、造血器腫瘍、各種造血不全症、出血・血栓性疾患を対象とする診断技術の向上、治療法の開発、病態生理の解明に力を注ぎました。また自らの専診療面では1980年(昭和55年)に連続血液成分採血装置が、1982年(昭和57年)にはクリーンブース(無菌室)が設置され、これら二つを利用することによって、造血器腫瘍に対しても従来より強力な化学療法を施行することが可能となりました。1983年(昭和58年)には骨髄移植導入の準備が進められ、9月に当教室としての第1例目が施行されました。なお、藏本教授は、その後、原医研の所長を兼任されることとなりましたが、所長在任中の1994年(平成6年)6月には原医研の改組を成立させ、原医研内科も病態治療研究部門臨床第一(血液内科)研究分野として発展的に生まれ変わることとなりました。
木村教授時代1995年9月-2012年3月
1995年(平成7年)3月には藏本教授が退官し、後任として同じ年の9月に木村昭郎第4代教授が就任しました。 木村教授は、原医研の内科臨床部門として、原爆被爆者並びに放射線被ばく者の内科的後障害に関する研究に力を注ぐとともに、白血病・骨髄異形成症候群・骨髄増殖性腫瘍・リンパ腫・骨髄腫・血小板減少症など様々な血液疾患の分子病態解明と、その診断法・治療法の開発を目指して国際的レベルの研究を推進しました。診療面では、造血幹細胞移植を含む新規治療を積極的に導入し、造血器腫瘍や血液難病の患者さんの治癒率の大幅な向上が実現されました。また、この時期に大きな脅威となっていたHIV感染症についても先駆的な取り組みが行われ、中四国地区のブロック拠点病院として多職種のチームによる診療活動の展開が実現されました。
また、木村教授は、原爆被爆者に関わる医学研究の成果を世界の被ばく者の医療に役立てる社会貢献活動として、国連決議に基づき、7年間にわたって外務省とJICAの推進するセミパラチンスク地区医療改善計画にも参画いたしました。具体的な支援内容としては、現地の医科大学と検診センターで血液内科・小児科の医師に対して血液疾患の診断・治療に関する技術指導を行うとともに、被ばく医療にかかわる国際協力事業として、旧ソ連やバルト三国などから多くの医師を原医研での研修に受け入れました。
また、広島大学は2004年(平成16年)より国の第三次被爆医療機関に指定されることとなりましたが、木村教授は、緊急被ばく医療推進センターへ特任教員を派遣するとともに、西日本における原発設置県とのネットワークの形成に力を注ぎました。2010年(平成22年)、血液腫瘍内科分野は、放射線災害医療研究センター所属に改組されましたが、福島原発事故の際には、事故発生後ただちに高線量被ばくに対する造血幹細胞移植が可能な体制を構築し、現地から帰還された方々の放射線量測定や、現地への医師派遣にも協力しています。